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八坂神社

 2006-03-27
八坂神社の創建については
諸説ありはっきりしないようですが
一説では大和時代
高麗の調使であった伊利之(いしり)の後裔・八坂氏が
朝鮮の牛頭(ごず)山に祀る牛頭天王を移したことに
始まるともいわれています。
また帰化した八坂造(やさかのみやつこ)一族の
氏神だった感神院が起源ともいわれています。

yasakazinnzya001.jpg

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四天王寺(2)

 2006-03-26
推古天皇元年(593年)に
聖徳太子が建立した日本仏法最初の官寺です。

『日本書紀』によれば
物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り
崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が
形勢の不利を打開するために
自ら四天王像を彫り
「もし、この戦いに勝たせていただけるなら
四天王を安置する寺院を建立しましょう」
と誓願され
勝利の後その誓いを果すために建立されました。

堂塔伽藍は創建以後
度重なる戦火天災に遭い
その都度再建を重ねましたが
伽藍配置は飛鳥時代の姿を伝えています。

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四天王寺(2) の続きを読む

四天王寺(1)

 2006-03-26
推古天皇元年(593年)に
聖徳太子が建立した日本仏法最初の官寺です。

『日本書紀』によれば
物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り
崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が
形勢の不利を打開するために
自ら四天王像を彫り
「もし、この戦いに勝たせていただけるなら
四天王を安置する寺院を建立しましょう」
と誓願され
勝利の後その誓いを果すために建立されました。

堂塔伽藍は創建以後
度重なる戦火天災に遭い
その都度再建を重ねましたが
伽藍配置は飛鳥時代の姿を伝えています。

sitennnouzi001.jpg

四天王寺(1) の続きを読む

久安寺

 2006-03-26
神亀2(725)年行基菩薩の開創、
天長年間弘法大使の再興と伝えられ
「安養院」が前身です。
久安1(1145)年賢実上人、
近衛帝の祈願所として
楼門、金堂、塔等49院の坊舎を
再興し久安寺と名付けました。

久安寺は関西花の寺第12番として
有名なお寺です。
一年を通じて
様々な花が出迎えてくれます。

久安寺は、池田市街地から
車で15分程の所にありますが
自然豊かな山の麓で
都会の喧騒を忘れさせてくれる素晴らしい所です。
境内にいると時間の流れを感じる事なく
気がつけば何時間経っている事もあります。

kyuuannzi001.jpg

久安寺 の続きを読む

興禅寺

 2006-03-26
徳川家光の乳母である春日局が生まれ、
「お福様」と3歳まで慕われて育ったのが
黒井城の下館であった興禅寺です。
戦国時代の城主は平時は山麓の下館に住み、
戦いが始まると山城にこもって戦っていました。
満々と水をたたえた七間堀と
堂々とした高い石垣・白壁で囲まれている興禅寺は
この当時の下館の様子を今によく残しており、
国の史跡に指定されています。

kouzennzi001.jpg

興禅寺 の続きを読む

東大寺

 2006-03-26
華厳宗大本山で大仏様で知られる東大寺は、
728年、聖武天皇が皇太子供養のため建立した
金鐘寺が東大寺の始まりです。

741年に聖武天皇が護国信仰に基づいて
国分寺の建立を命じられた際、
金鐘寺を大和国分寺として
金光明寺と名付けました。
743年になり聖武天皇が大仏造顕の詔を公布し、
745年に金光明寺にて造営が開始された際、
東大寺となりました。

大仏は752年に開眼供養が行なわれたが、
大仏殿や講堂などの伽藍が
完成したのは789年になります。

toudaizi001.jpg

東大寺 の続きを読む

興福寺(2)

 2006-03-22
法相宗の大本山として知られる興福寺。
その前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さらにさかのぼると
天智朝の山背国「山階寺」が起源となります。
その山階寺は、天智8(669)年に藤原鎌足が重い病気を患った際に、
夫人である鏡大王が夫の回復を祈願して、
釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられており、
この名称は後世においても興福寺の別称として使われています。
その後、壬申の乱(672年)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、
その地名を取って厩坂寺とされました。
さらに、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとともに、
「興福寺」と名付けられたのです。

koufukuzi2-001.jpg

興福寺(2) の続きを読む

興福寺(1)

 2006-03-22
法相宗の大本山として知られる興福寺。
その前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さらにさかのぼると
天智朝の山背国「山階寺」が起源となります。
その山階寺は、天智8(669)年に藤原鎌足が重い病気を患った際に、
夫人である鏡大王が夫の回復を祈願して、
釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられており、
この名称は後世においても興福寺の別称として使われています。
その後、壬申の乱(672年)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、
その地名を取って厩坂寺とされました。
さらに、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとともに、
「興福寺」と名付けられたのです。

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興福寺(1) の続きを読む

金剛峰寺・奥の院

 2006-03-15
聖地・高野山の中で 最も神聖なる地『奥の院』

樹齢千年を越す杉の大木が建ち並ぶ参道の両脇は、
数十万基といわれる墓石や供養等で埋まり、歴史上有名な人々の墓も数多くあります。

その参道を歩いていくと 玉川という小さな川が流れて
此岸と彼岸が明確に別けられているようです。
玉川に架かる御廟橋を渡ると 弘法大師御廟や灯籠堂などがあり
本当に彼岸の地へ訪れたような雰囲気に包まれます。

弘法大師は この地を入定留身の地として自ら定められ
大師入定後 弟子たちは この地の定窟に生身と全く変わらない定身を収め
その上に弘法大師御廟を建て 日々のお給仕をたやさなかったと記録されています。
弘法大師は 今なお 参拝される人々に優しく語りかけているようです。

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金剛峯寺 (4)

 2006-03-14
高野山は弘法大師・空海が、弘仁7年(816年)に
嵯峨天皇より高野山開創の勅許を得 真言密教の根本道場として開山しました。

標高1000メートル前後の山々に囲まれた平坦地に諸堂が立ち並ぶ姿は
『蓮』の花が開いた様であり『八葉の峰』とも呼ばれ
内に八葉(峰)外に八葉の山々に囲まれています。
内の八葉は、根本大塔をめぐる八峰で
『伝法院山、持明院山、中門前山、薬師院山、御社山、神応丘、獅子丘、勝蓮華院山』と呼ばれ
山上の周辺にそびえる外の八峰は
『今来峰、宝珠峰、鉢伏山、弁天岳、姑射山、転軸山、楊柳山、摩尼山』と呼ばれています。
その地形からしても まさしく聖地としてふさわしい山上の宗教都市です。

高野山の総本山は金剛峯寺(こんごうぶじ)です。
現在は、豊臣秀吉公とゆかりのある建物を金剛峯寺と呼んでおりますが、
元来一山の総称であり、諸堂や大門、奥の院など高野山全体が金剛峯寺の境内でした。

また高野山は、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されています。

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金剛峯寺 (3)

 2006-03-14
高野山は弘法大師・空海が、弘仁7年(816年)に
嵯峨天皇より高野山開創の勅許を得 真言密教の根本道場として開山しました。

標高1000メートル前後の山々に囲まれた平坦地に諸堂が立ち並ぶ姿は
『蓮』の花が開いた様であり『八葉の峰』とも呼ばれ
内に八葉(峰)外に八葉の山々に囲まれています。
内の八葉は、根本大塔をめぐる八峰で
『伝法院山、持明院山、中門前山、薬師院山、御社山、神応丘、獅子丘、勝蓮華院山』と呼ばれ
山上の周辺にそびえる外の八峰は
『今来峰、宝珠峰、鉢伏山、弁天岳、姑射山、転軸山、楊柳山、摩尼山』と呼ばれています。
その地形からしても まさしく聖地としてふさわしい山上の宗教都市です。

高野山の総本山は金剛峯寺(こんごうぶじ)です。
現在は、豊臣秀吉公とゆかりのある建物を金剛峯寺と呼んでおりますが、
元来一山の総称であり、諸堂や大門、奥の院など高野山全体が金剛峯寺の境内でした。

また高野山は、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されています。

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金剛峯寺 (2)

 2006-03-13
高野山は弘法大師・空海が、弘仁7年(816年)に
嵯峨天皇より高野山開創の勅許を得 真言密教の根本道場として開山しました。

標高1000メートル前後の山々に囲まれた平坦地に諸堂が立ち並ぶ姿は
『蓮』の花が開いた様であり『八葉の峰』とも呼ばれ
内に八葉(峰)外に八葉の山々に囲まれています。
内の八葉は、根本大塔をめぐる八峰で
『伝法院山、持明院山、中門前山、薬師院山、御社山、神応丘、獅子丘、勝蓮華院山』と呼ばれ
山上の周辺にそびえる外の八峰は
『今来峰、宝珠峰、鉢伏山、弁天岳、姑射山、転軸山、楊柳山、摩尼山』と呼ばれています。
その地形からしても まさしく聖地としてふさわしい山上の宗教都市です。

高野山の総本山は金剛峯寺(こんごうぶじ)です。
現在は、豊臣秀吉公とゆかりのある建物を金剛峯寺と呼んでおりますが、
元来一山の総称であり、諸堂や大門、奥の院など高野山全体が金剛峯寺の境内でした。

また高野山は、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されています。

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金剛峰寺 (1)

 2006-03-12
高野山は弘法大師・空海が、弘仁7年(816年)に
嵯峨天皇より高野山開創の勅許を得 真言密教の根本道場として開山しました。

標高1000メートル前後の山々に囲まれた平坦地に諸堂が立ち並ぶ姿は
『蓮』の花が開いた様であり『八葉の峰』とも呼ばれ
内に八葉(峰)外に八葉の山々に囲まれています。
内の八葉は、根本大塔をめぐる八峰で
『伝法院山、持明院山、中門前山、薬師院山、御社山、神応丘、獅子丘、勝蓮華院山』と呼ばれ
山上の周辺にそびえる外の八峰は
『今来峰、宝珠峰、鉢伏山、弁天岳、姑射山、転軸山、楊柳山、摩尼山』と呼ばれています。
その地形からしても まさしく聖地としてふさわしい山上の宗教都市です。

高野山の総本山は金剛峯寺(こんごうぶじ)です。
現在は、豊臣秀吉公とゆかりのある建物を金剛峯寺と呼んでおりますが、
元来一山の総称であり、諸堂や大門、奥の院など高野山全体が金剛峯寺の境内でした。

また高野山は、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されています。

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勝尾寺

 2006-03-04
大阪平野の真北に位置する勝尾寺は
神亀4年(727年)「善仲」(ぜんちゅう)、「善算」(ぜんさん)という双子の兄弟が、
草庵を構え修行したことに始まります。

天平神護元年(765年)光仁天皇の皇子(桓武天皇の兄)開成皇子(かいじょうおうじ)が
紫雲たなびくこの霊山に入りて、先述の二師と遭遇、共に修行に励みて、
宝亀6年(775年)7月13日、開成の写経した大般若経600巻が、般若台に埋めらました。

時の朝廷・父・光仁帝の威光のもと、大伽藍が建立され、
弥勒寺(みろくじ)と号されたのはこの頃であります。

平安時代6代座主の行巡上人(ぎょうじゅんしょうにん)は
清和天皇の玉躰安穏を祈って効験を示したことから
清和帝より直々に「我が権力よりも力あり」まさに「王に勝った寺(勝王寺)」と命名されました。
しかし、寺側は「王」を「尾」に差し控え、勝尾寺(かつおうじ)と号されるようになりました。

源氏・足利氏などの覇者が勝ち運を祈り、今はスポーツや試験など勝負の勝運の寺としても有名です。
境内には勝ちだるまが出迎えてくれます。

勝尾寺にある言葉で「すべては自分に勝つために」とあります。
何よりも自分に勝つことが一番大切なのでしょう。

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春日大社

 2006-03-04
和銅3年(710)藤原不比等が平城遷都の際、藤原氏の氏神を祀ったのが起こりとされています。
神護景雲2年(768)現在の地に社殿を造営しました。
興福寺と同様、藤原氏が勢力を伸ばすにつれ盛んに社殿の造営が行われ、
平安前期に現在のような規模を整えました。
皇族や貴族の春日大社詣もさかんとなり、また中世以降になると庶民にも信仰がひろまり、
全国各地に御分社がつくられるまでになりました。
“万燈籠”で知られるさまざまな形の釣燈籠、石燈籠の多くは庶民が寄進したものです。
毎年2月と8月にすべての燈籠に火を入れる“万燈籠”の行事が行なわれ、
その幻想的な美しさに、多くの参拝客が訪れます。

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室津

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